私の問題解決の考え方 第9章

第9章 母の介護の問題
 -かなり怖くなったが、やるべきことができたー

この問題についての検討は、第8章執筆中(2010年6月)に起きたことがきっかけで始めました。即ち、高齢で一人暮らしの、私の母が急に脳梗塞になってしまったのです(軽いものだったのですが)。

このようなことから、私は執筆を中断し、3ヶ月近く、母の問題の解決に専念したのでした(入院から老人施設への入居まで)。

そのとき、母の問題を「私の問題解決の考え方」の応用と考えて、解決を図りました。そして、それが基本的には役に立ったのですが、二、三新しい気づきもありました。


論文の方でも、半導体の研究の話をここで中断して、母の問題のために新しい章を設け、その説明をしましょう。第6章から、専門的な話が続いたので、それはちょっと休みましょう。また、介護の問題もとても大事なものであるからです。


[執筆中に新しい問題も含めるようになったことから、論文の題も次のように変えようとも考えました。

私の問題解決の考え方・・・・・全ては「まんずやってみれ!」
 ―半導体研究、介護の問題から、わが家の建築まで― ](2014年記)


9.1 背景

母は、ほぼ20年一人暮らしをし、人の世話になりたくないと言い、自分の大好きなところで、勝手気ままな生活を続けてきました。2009年秋まで数年間、訪問介護(週3日、プラス2週間に1回医師、看護師訪問)付きで独り暮らしをしてきました(また、その間、1週間に1回私が様子を見に行っていました。)。

しかし、2009年9月に母の弟が病死してから、幻覚などの症状が出て、介護に毎朝(日曜を除く)の見守りを追加してもらいました。

その後、ゆっくり回復はしていましたが、2010年2月に介護認定が行われて、要介護3に(これまで1)になりました。これを受けて、医師、ケアマネージャー、看護師全員から一人暮らしは無理と言われました。私も、そう考え、我が家の近所の施設Aに入居依頼をしました。しかし、母の、一人でいたいという強い希望を尊重し、もう少し一人暮らしを続けられるように頼みました。

結局、週6日、連日介護(増加)をお願いして様子を見ることに(プラス週1回の看護師、医師と私の訪問)していただきました。


一方、私もこの時点で考え方を変えました。母についての今後の計画を立てました。

そもそも、母は、父が亡くなってから20年近く一人暮らしでした。自分が大好きなマンションで気ままに暮らしていて、一人暮らしを心配した私が何回か私の家の近くに来るように勧めたのですが。ずっと断られていました。従って、それまでは、問題が起き、母から頼まれれば、その都度助けるようにして、それ以外は母の意志に任せるようにしていました。

しかし、今度は、母の一人暮らしへの強い不安(私の)から、目前の問題が発生したときだけでなく、もっと母の生活に深く立ち入って、頼まれないところにまで、母の問題に私が対処しなければならないと考えました。

つまり、母の問題を「私の問題」として考えることにしたのです。

私は、以下のような、先のことまで考えた(それまでは目の前のことだけ)、大ざっぱな計画を立てました。


目標:母が最終的には特別養護施設Bに入居し、やることを見つけて、平安な生活を楽しむ。(大きな目標)


計画(2010年2月)

1.現状での介護生活に慣れる(様子を見ながら)、
→ 2.施設A(小さい、家庭的な施設で、介護施設での生活に慣れる)へ入居させ、
→ 3.2011年秋に個室棟ができる施設(特別養護施設)Bに入居させる。

ここで、1から2へ移る時期は全く不明で、母の調子がよければ入居を嫌がるのは分かっていました。

 
しかし、いくら母が一人暮らしを続けたくても、現実には、それが無理になってきていることも確かでした。私は、今度母が転ぶようなこと(5年ぐらいの間に2回あり)があったら、そのときは入居だと、母にも言っていました。

でも、母は、それから持ち直し、かなり元気になって、身の回りの片付けなどもできるようになりました。そして、施設へ入(い)れることを少し忘れそうになっていました。


9.2 脳梗塞で入院から介護施設への転院

しかし、ついに、6月になり、ある日、母のお世話になっている看護師さんがら、埼玉のわが家に電話がありました。母が脳梗塞らしく、病院へ運ぶという連絡でした。 

私が大急ぎで東京の病院へ駆けつけ、脳梗塞だということが分かり、そのまま入院となりました。その間に、母は、退院時に埼玉のわが家の近くの施設Aに移ることを受け入れてくれたのでした。


ここでは、以下、入院から、施設Aへの転院、それから、そこである程度落着くまでの経過と解析を説明します。


看護師さんからの電話から、状況がどう変化していくか、そのときどき、全く分かっていないので、少し状況が変わるごとに、進む方向を再検討していき、結果として、施設Aに入ることができました。

ですから、この問題の解決(まだ本当の解決ではありませんが)では、目の前に現れる小さい問題を一つ一つ解決して、母の問題が一段落するところまで到達できたわけです。

途中で分かったのですが、これまでやってきたことは、2月に立てた計画の進行の一部にもなっているので、この視点からも問題の検討を行ないます。

では、経過を説明しましょう。


1)できるだけ早く病院へ運び、検査してもらう(当面の目標)

母は、2010年6月9日14時前に自宅でヘルパーさんと話しているときに、急に話せなくなったのだそうです。運よく、母のかかりつけの病院へ直ぐに運んでもらい、検査を受けました。この日は、偶々、ヘルパーさんが1時間早く来たこと、ケアマネジャーさんとヘルパーさんの主任が前の仕事が早く終わり、介護サービスの事務所にいたこと、私も出かける予定を変更し、家にいて、看護師さんからの電話のときに、行く病院の名前を教えられたことなど、いくつかのよい偶然が重なり、うまい具合に早く検査してもらえました。

検査の結果(CT、MRI)では、脳にはっきりした異常は認められませんでした。そして、担当の内科医がどうしたものか考えているときに、偶々、神経内科のA先生が居合わせて相談に乗ってくれていて、ちょうどそのとき私が埼玉の自宅から病院に到着したのでした。

このように、母を希望の病院へ迅速に連れていき、検査が受けられたのは運がよかったとしか言えませんが、介護サービスの人達の機転の利く対応のお蔭でもあります。

☆ 母の異常に素早く対応してくれたヘルパーさん
☆ 看護師さんが私に電話をくれ、私が行くべき病院を指示できたこと
☆ 検査結果の説明のときにケアマネジャーさんも私と同席してくれ、入院させてもらえたこと

などです。


私は病院に到着後、母を見(チェック機能)、ちょっと話し、2,3日前と大きく違っていることに気づいたのて、それをお医者さんに分かってもらえ、入院させてもらう(当面の目標)ことに専念しました。(16時前―18時頃)


2)入院させる(18時頃から19時頃)

上記のように、CT、MRI検査の結果、脳にはっきりとした異常は認められませんでした。従って、病院としては、積極的に入院をさせたくないという感じでした。

この病院はかなり混んでいるので、相当悪くないと、入院させてもらえません。従って、私は、この発作での母の変化をきちんと説明し、母がなんとか入院させてもらうように強く頼みました。(母の様子を観察することがチェック機能で、その結果で行動を決めています。)


幸い、私よりちょっと後に来てくれたケアマネジャーさんと私とで、発作前の母の状態を専門のA先生(神経内科)によく説明することができました。即ち、言語障害が相当出ていて、右手がうまく使えないことなどを。また、入院できない(帰される)と、一人暮らししなければならないことと、それが本人にとって無理なことも強調しました。


その結果、症状の方から脳梗塞と判定してもらい、入院はほぼ許可というところまできました。


3)入院の危険性についての考慮(19時頃から約30分)

ここで、A先生に、入院しても悪くなってしまう可能性について、いろいろと念を押されました(母が高齢であるので)。

☆ 脳梗塞であると、多くの場合、もう少し病状が悪い方に進行して安定状態になる。
☆ 転倒のような事故が起きて、動けなくなるかもしれない。従って、ベッドから落ちないように縛り付けるようなこともありうる。
☆ 認知症のときなど、入院することで悪化してしまうことがある。
☆ 入院中になにかがあって命が危なくなったときに延命処置をしてもらうかどうかを決めておいてもらいたい。

これらのことを受け入れてから、入院を許可してもらいました。


4)治療と検査をしてもらう(6月9日-28日)(次の目標のためのチェック機能)

入院前のA先生の心配のほかに、私も母のことがかなり心配でした。それまで、母は静かに一人暮らしを続けてきて、急に入院し、6人部屋で生活しなければならないのです。ですから、私としては、母が、体力的に、精神的に、入院に耐えられるかどうかが心配でした。しかし、入院したからには、できる限り、回復させ、他の病気も検査してから、退院させたいと考えました。

病院へできる限り頻繁に行き、母の様子を見るとともに、行くたびに、A先生や看護師さん達と母のことについて話すようにしました。

一方、母は、入院の次の日から、A先生の予想(病状が悪い方に進んでから安定することが多い)に反するように順調に回復に向かったのでした。言語障害は日に日に減っていき、入院後気づいた右半身の不自由さも少しずつなくなっていきました。

毎食時に約2時間ずつ、母は車椅子に座った状態にされ、リハビリ(歩く訓練)も毎日やってもらいました。病院の食事もしっかり食べて、6人部屋の暮らしにもなんとか耐えていました。(母は相当しぶとかった。)

入院から3日後に、A先生から、経過がいいので後2週間ぐらいで退院することを考えてもらいたいと言われました。

そこで、次項の、転院先を見つけるという問題を解決してから、できる限りの回復と、他に悪いところがないかの検査を無事終わらせたいと考えました。

そして、それがうまくできたのです。


5) 病状安定後にどうするかを決める(6月11日-15日)(次の目標)

A先生とソーシャルワーカーのKさんと相談して、28日に、この病院から、我が家の近くにある、老人養護施設Aに転院させることにしました。なお、リハビリ病院も選択肢の一つでしたが、母の年齢と体調を考慮すると施設の方がいいだろうというA先生の意見を取り入れて、施設にしました。

一番の難関は母だった(これまで入居拒否)のですが、今回は、A先生の前で、一人暮らしは大変だろうから施設Aに入ろうと率直に言ったら、母は簡単にそれを受け入れてくれました。(想定外でしたが、母も自宅で一人というのは無理だと観念したのでしょう。)

なお、施設Aは、うまい具合に、20日に空きが出るとのことで、28日まで待ち、入居させてもらえるように交渉できていました。(運がいい。)

この時点で、私は、「母の問題」について2月に立てた計画のことを思い出しました。うまく転院できれば、上記計画の2)の段階に入るということです。2月には、母を老人施設に入居させる当ては全くなかったのですが、ここで今回の「母の脳梗塞の問題」が上記「母の問題」の一段階であることに気づいたのでした(第一難関突破)。

そして、「転禍為福」という言葉が私の頭の中に浮かびました。もしかしたら、今回の入院が「転禍為福」になるのではないかと、いや、「転禍為福」になるようにしたいと考えました。


6)円滑に転院させる(6月20-28日)

病院は東京の世田谷区にあり、施設Aは約40キロ離れた埼玉にあります。問題は転院日の母の体の状態です。そのとき、どうなっているか分かりませんでしたが、車椅子のままで運ぶという想定で、施設に相談したところ、施設から迎えにきてもらえることになりました。

また、母が、施設へ行く前に、自分の住んでいたところへ寄っていきたいというので、それも計画に入れました。

計画としては、13時前に施設に到着することとして、病院発は10時頃にしました。しかし、病院のやり方では、10時以降に請求書が病室に来て、支払いを済ませてから退院ということなのですが、その来る時間というのがはっきりしないのだそうです。

そこで、病棟のナースステーションの係りの人や、入院受付の人(いろいろ相談して知り合いになっていました)にわけを話して、できるだけ早く請求書が来るように頼みました。また、施設の人にも、10時までには来てくれるように頼みました。

転院予定日前日に母の調子がそう悪くなさそう(チェック機能)なので、予定通り進めることに決めました。なお、移動中にお腹が空くことを考え、食べ物を用意しようと思ったら、親切に、施設で昼食にしてくれると言ってもらえました。

当日は、10時過ぎに無事退院でき、母のマンションへ行ったら、母が中へ入らなくてもいいと言うのです(よかった!)。そこで、直ちに埼玉に向かい、12時ちょっと前には施設に到着してしまいました(これもよかった!)。

母は、用意していてもらった食事を済ませてから、自分の部屋に入ることができました。

これで、私がやろうとしていたことがほぼうまくいったことになります。この20日間あまりは、短いようで、とても長かったです。

どうしていいか分からないようなことを、あまりよく考えずに決断したり、実行したりする(考える時間がなかった)一方、母の体が病院での約20日持つかどうかの心配(時間がもっと長く感じられた)もありました。

考えてみたら、肝心なことは、母の体調でした。入院中に、母が順調に回復してくれるかどうか、そして、母にとってはとても辛い入院生活を乗り切ってくれるかどうかでした。

どちらも母の気の持ち方と体力にかかっていて、私自身は助けられません。私は、母が転院までなんとか修行だと思って頑張ってくれ、28日に無事転院できれば、自宅ではないけれど、個室でもう少し落ち着くと思うからと、母に何回も言っていました。ここは、母の生きようとする力があるかどうかにかかっていました。

結局、大勢の人達に助けられて、母は悪くなることなく、なんとか無事に、施設Aに転院することができました。


7)転院先に早く慣れるようにする

施設に転院するのは、第一には、母を脳梗塞から順調に回復させるためです。そのために、母をできるだけ早くこの施設に慣れさせたかったのです。しかし、長い間の一人暮らしと入院までの母の精神状態を考えると、そうできるかどうかとても心配でした。

実際に、母は、毎日、いろいろ不平、不満を、私達に言ったり、人声や足音を怖がったり、騒音や人の動きで混乱したり、職員の人達との意志の疎通ができなかったりで、慣れるまで本当に大変でした。(病院ではもっと苦痛だったと思うのですが、病院ではそれほど文句を言わず、施設に来て急にひどくなりました。)

約1ヶ月はこのような状態が続いていて、どうなることか心配でした。私達はほぼ毎日母の様子を見に行っていましたが、機嫌が悪く、笑顔は見せず、文句ばかりに言っていました。

食堂がうるさく、人の動きが目まぐるしくて頭がおかしくなる、食べているときに話しかけられると混乱する、明るすぎて目がちらちらする、部屋の外の音が怖い、知らない人が入ってきて何かされるような気がする、でも、息苦しくなるからドアを閉めないでくれ、職員のやることがちぐはぐだ、頼んでもやってくれない、言われたことを理解できない、介護の仕方が乱暴だ、などなどです。

しかし、いろいろな不満の種に気づくことはできるし、ご飯はしっかり食べているようで、体調は少しずつ回復しているようなので、自然に任せ、母が変化するのを待つことにしました。

入居してとても不思議だったのは、母が、職員や他の入居者の人達の名前を覚えようとしないことでした。「私と関係ない」と言うのです。初めは、脳梗塞の影響かと思いましたが、後から考えると、新しい環境への拒否反応の現われだったのではないかと思います。

これに対して、私はちょっと試してみようかと思いました。母が人の名前を覚えようとしないなら、私が覚えていきました。そして、母の前でヘルパーさん達を名前で呼ぶようにしました。

入居後約1ヶ月経つと、少しほほえむこともありました。また、私がヘルパーさんを名前で呼ぶと、自分は名前を覚えられないと言い、ちょっとすまなそうな素振りを示したのです。

これらのことで母が少し慣れ始めたかなと考えて、娘達を呼ぶことにしました。次女が子供達(母のひ孫)を連れてきたときに、予告なしに母に会わせました。母は横になっていて、そのときまで機嫌がよくありませんでしたが、子供達が母に見えるようにすると、急に元気になったのです。

起き上がって、子供達とニコニコしながら話したのでした。

その後、一人のヘルパーさんの名前を自分で覚えました。それから、文句が少しずつ減り、入居後2ヶ月でいくらか慣れたと言える状態になりました。


8)慣れるだけでは駄目・・・転禍為福

この調子で慣れていってくれれば、多分は母は入院前とほぼ同じ状態まで回復する可能性はかなりあると思いました。しかし、その状態というのは、なんとか生きてはいますが、少しずつ弱っていくものです。

しかし、慣れるのに苦労するであろうということは想定外ではなく、私が心配していたことでした。これがうまく行っても、それで一安心かというと、そうではありませんでした。

実際に、入居は、まずは脳梗塞から順調に回復させるためでしたが、私としては、もっといろいろなことを考えていました。

☆勝手気ままな「閉じこもり」生活からの脱却
→知らない人を怖がらない
→拘りを減らす
→他人のやり方を受け入れる、いろいろな可能性を認める
→より多くの人と関わりあう
→頭の働きをより活発にする

☆一般の人が暮らしている環境(世の中の普通の刺激)に耐えられるようになる・・・
 明るさ、音、人の動き、話しかけられる、電話、訪問、など。

☆自分で歩けるようになる

☆新しいことから逃げない

☆楽しいことを見つける

☆やりたいことを見つける

などです。

つまり、脳梗塞での入院から、今の施設に入るようになったことを、母の心身状態の改善のきっかけにしようと考えました。漫然と一人暮らしを続けていたのでは、母は心身ともに弱っていくばかりでした。

そこで、脳梗塞という「禍」を「福」にしたいと考えたのでした。

次節では、これからどうするかを考えましょう。


9.3 これからどうしたいのか?

母の体と心の状態をできるだけよくして、母ができる限り前向きな気持で施設Bに転院するように持って行きたいのです。その施設は、かねて私が母を入れたらどうかと考えていた特別養護老人ホームです。

ここに入るときに、脳梗塞前より良い心身状態にしてやりたいのです。この施設では、もう一人暮らしの頃より栄養状態がよくなっているし、新しい刺激もあるし、身の回りの世話もしてもらえるので、自分の心の持ち方さえ変えられれば、精神的にも、肉体的にも、入院前より良い状態になる可能性があります。


施設の人達の助けも借り、まず、母を元気にして、それから、やりたいことを見つけるのを助けたいと考えました。

6月末に今の介護施設に母が入って以来、既に書いたように、施設の生活にある程度慣れてきました。長い間の一人暮らし、母の年齢、性格と、入ったときの心身状態を考えると、自分が好まない場所での生活に耐えられないのではないかと心配していました。しかし、なんとか持ちこたえてくれました。

入った当時は、施設の欠点ばかりを指摘していました。そして、いろいろ不平や不満を並べ立てていました。少しずつ慣れてきた今でも、明るすぎて目がおかしくなるとか、職員が変わりすぎるとか、数が足りないとか、毎日落ち着く暇がないとか、言っています。

私としては、介護してもらうことへの抵抗がなくなるようにし、脳梗塞になる前より良い心身状態にしたいと考えています。そして、1年あまり先には、私が最適と考える、もう一つの施設、特別養護老人ホームBに、何かやりがいのあるやることを持ち、首尾よく入居できるようにしたいと考えています。


1)現状での問題点


まず、母は、介護されることを我慢するようにはなりました(ある程度慣れました)が、それをまだ負担に思っています。ですから、施設にいても「忙しくて」落ち着く暇がないと言っています。なんとかして介護を生活の一部として、抵抗なく受け入れるようになってもらいたいです。

このようになるのは、多分、長年の、勝手気ままな一人暮らし(誰にも邪魔されない)と、自分の住んでいたところがこの上もなく好きだったからでしょう。また、自分がもうそこへは帰れないだろうということに絶望を感じている一方、そこの生活を諦めきれられないのかもしれません。

もし、そんなに自分の家に未練があるなら、つまらないことを気にせずに、もっとリハビリに励み、早く元気になるように努力すべきだと思うのです。私もそれを勧めていますし、母の住んでいたところはそのままにしてあります。もう家に帰れないなどとは言っていません。

しかし、リハビリに本気になれない(ならない)のです。今の施設に転院する3日前まで、母は、東京の病院で歩く訓練をしていたのです。それなのに、こちら(埼玉の施設A)に移ってからは、一人で立てないとか、この施設ではリハビリはできないとか言うのです。

でも、見ていると、車椅子-ベッド間の移動は一人でやっている(立てる)のです。また、ベッドの上で寝ながらのリハビリは毎日やっています(機能訓練士の指導で)。全部できないうちに、いつも邪魔が入ると言っていますが。

どうしてこんなに後退してしまったのかよく分かりません。もしかしたら、施設での生活(新しい環境での前と比べたら忙しい日課)に慣れるので精一杯なのかもしれません。また、リハビリをやる施設が埼玉でなく東京(自分の好きな)にあって欲しいという気持ちの現われかもしれません。それとも、今の施設への不満の表現でしょうか。それとも、ここが自分のために良いところだと認めたくないのでしょうか。


次に、強い拘りが直りません。そんな余裕はないのかと思ったら、こちらに関しては、あるようです。

例えば、ボールペンとか便箋を、わざわざ東京の家にある、自分が使っていたものを持ってこいと言うのです。女房に着るものを買ってくれと頼んでも、なんだかんだと不満を言います。本当は、自分がこれまで利用してきた、某有名デパートのものがいいと思っています。私達に何かをやってもらうのにも、自分の思い通りにやらせようとします。


その一方、自分の置かれた状況を正しく理解できていません。脳梗塞になったことを、この程度で済んでよかったと喜んでいますが、これは間違っています。実は、脳梗塞とともに、その前にお医者さんに「認知症」と診断されていることは、母にとって「重要な警告」なのです。脳梗塞も認知症も、これまでの生活様式が関係している可能性が高いので、これを機会に、自分の暮らし方や考え方を変えろと教えてくれているのです。

しかし、母はこれまで十分気を付けて暮らしてきたと言い張っています。


上にあげた問題点は、皆、母自身の気の持ち方に関係しています。つまり、母が変わってくれればいいのです。しかし、母がその気になってくれないと、なかなか変えるのは難しいでしょう。


2) やるべきことは?


母が平安な余生を送れるようにするために、母が、

毎日介護されることを自然に受け入れ、
歩くことができ、
周りの人達と意思の疎通ができ、
そして、何かやることを見つけた状態で
施設Bに転院させたいと考えています。

周りの私達には母のために何ができるのでしょうか。

まず、図らずも(脳梗塞になったお蔭で)、母は、一人暮らしを止め、施設Aに入居することになり、既に、母の状態を改善させる努力がなされています。否応なしに毎日介護されるようになり、新しい人達と関わらなければならなくなり、生活が規則的になり、栄養面でも改善がありました。

ですから、母に施設入居を納得させるという大きな問題は自然に解決してしまったのです。しかし、この急激な変化は、母の心身にとって大きな負担になりました。ですから、初めの1ヶ月あまりは、母がこの試練に耐えられるかどうか極めて心配でした。

しかし、母は、幸いにも、施設での生活になんとか慣れてくれて、今ゆっくりと回復に向かっています。

私達がやることは、

できる限り毎日母の様子を見に行き、話しかける、
娘家族にも来てもらう、
母をボケ老人としてではなく、一人の大人として接する、
甘やかさない、
自分でできることはなるべく自分でやらせる、
母の希望を満たすよう努めるが、私が間違っていると判断したことはやらない、
異常な拘りはなくすように仕向ける、
母に対してお節介になる、
母の問題を私の問題として考える、
感じたことははっきり、正直に言う、
脳梗塞の前以上の心身状態になるようにするつもりになる、
施設の人達に助けてもらう、
きちんと話せるように指導する、
などです。
――12/17



母には、自分がおかれている状況を正しく理解して、自分の生き方(過ごし方)を、一人暮らしの頃の生き方から、新しいものへ変えていってもらいたいのです。

そして、一人で勝手気ままに暮らすのではなく、周りの人達と関わり合いを持ち、助けてもらいながら、何かやりがいのあることを自分で見つけられるようにしたいです。

これらのことを実現できるかどうかは、母が自分の気持を変えられるかどうかにかかっています。ですから、そう仕向けるように、私達家族は努力を惜しみません。勿論、施設の皆さんの力も借ります。


今は、とにかく、母に刺激を沢山与えようとしています。一人暮らしのために、脳梗塞の前から頭の働きが少しずつ弱ってきていたのです。私達はできる限り頻繁に母のところへ行き、話しかけ、話させるようにします。また、娘達にも、ときどき子供達を連れ、会いにきてもらうようにしています。


母にしてもらいたいことは、

☆自分が元気になることに専念してもらいたい。リハビリに励む、つまらないことに拘らない、自分が将来どうなるかを真剣に考えてもらいたい。

☆これまでの生活様式を改める。脳梗塞になる前の自分の暮らし方と、脳梗塞、認知症(脳の働きの低下)との関係について考える、食生活を変える(塩分を控えるとか、規則正しい食事など)、暮らし方を変える(規則正しくする、リハビリを頑張る、他の人と付き合うなど)。

☆施設の生活に慣れる。介護を生活の一部として受け入れる。つまり、人の世話になることに慣れる。


具体的に努力してもらいたいことは、

座っている時間を長くする、
座って、書いたり、読んだりする、
明るい場所に慣れる、
立つ練習をする、
つかまって歩く練習をする、
階段の昇り降りをやる、
はっきり話すように心がける、
大勢の人と話す、
施設の人達の名前を覚える、

などです。


将来やることとしては、

書道や、
キーボードの演奏

などを勧めるつもりです。


歩けるようになったら、外で

散歩、
ドライブ、
食事

などができるようにしたいです。


3)解決の見通しは?

この問題はかなり難しいものなので、どういう結果になるかはっきり言えません。


解決に使える時間は、母と私達がどのくらい生きられるかによって制限されます。

この問題は母が死んだらお終いです。そして、死ぬことは確かです。しかし、その時期については分かりません。ほぼ30年以内ということは確かだと思いますが。

私の計画は、母も私も、母の施設Bへの入居まで生きているということを想定しています。但し、私が先に死んだ場合でも、お金はなんとかなるように考えてあります(余程の高額医療にはならないことを想定)。その場合にも、女房や娘達がやることをやってくれるでしょうが。

計画がうまく行った状態として「3年後施設Bで良好な心身状態で平穏な生活を送っている」(大目標)こととしてみましょう。そうすると、そのとき、母はほぼ95歳です。それまで生きているだけでも大変です。これから、精神的にも、肉体的にも弱っていく傾向にあるのは確かです。現状維持とか、衰弱を遅らそうと思っているだけなら、目標達成は無理です。

ですから、このように、周りのものが初めから諦めていたら解決はできません。それより、母はもっと諦めないでもらいたいです。

母が認知症と診断されたり、脳梗塞になったのは、一人暮らしの影響が大です。母の状態を好転させるためには、今までの生活の仕方や母自身の心の持ち方を変える必要があります。

生活様式については、母が図らずも介護施設に入ったことで、従来から著しく違った状態に変えることができました。

そして、私も、母の問題を「私の問題」として本気になって考えるように、自分の考え方を変えました。そのうえで、既に書いたように、やるべきことをいろいろ考え、実行したり、しようとしたりしています。

ですから、母にも、これまでの拘りの強い、一人暮らしの考え方ではうまくいかないことをきちんと理解し、自分の考え方を変えてもらいたいです。

現状では、母は、一応、施設での新しい生活を容認するというか、我慢している状態になっています。しかし、自分の考え方を変えようとまでは思っていないし、あまり前向きになっているとは言えません。

今の状態を利用して、心身ともにもっと元気になろうというような積極的な気持ちにはまだなれないでいます。

母が変わるためには、自分が一人暮らしのときやっていたことを、小さいことでもいいですから、変えてもらいたいです。新しい習慣を作ってもいいです。

何か一つでも、前の暮らし方を変えるのだという決意を示してもらいたいのです。今までのやり方を変えるという形で。


今、私が母にまずやってもらいたいことが二つあります。

一つは、自分が動けなくなったり、できなくなったりして、何かを頼むとき、昔の拘りをなくしてもらいたいのです。

もう一つは、一人暮らしのときには、かなり塩分を多く摂っていたので、それを自分から減らす努力をしてもらいたいのです。

前者は母にとって難しいことかもしれませんが、頼まれた私の方も、私が正しくないと思うことまでやらないことにしました。このようなことが2,3回あって、私がいくら説得しても、自分の考え方は絶対に変えない(私が少し譲歩しても)と言い張ったのでした。そして、私が言われた通りにやらないので、私を恨んでいます。

後者についても、施設の食事の塩分が少ないから塩辛いものを買ってこいと私に頼んだのですが、脳梗塞になる前の自分の生活について何も反省していないのです。自分のことは自分でちゃんと注意しているから大丈夫だと言うのです。仕方がないので、私は買う量を調節し、毎回、母に注意することにしています。

これらのうち、少なくとも、塩分のことだけでも注意することから始めてもらいたいです。


一方、希望の持てることもいくつかあります。

今の施設に入れてよかったというようになった。
ここにいれば安心だと言っている。
ここでいろいろ勉強させてもらっているとのことである。
字が書けないと言っていたのに、銀行の手続きのために署名をすることができた。
この施設の食事が美味しいと言っている。
食べ物に興味がある。
施設の人達の名前をいくらか覚え始めた(最初は拒否)。
不平、不満を私達家族には言える。
ベッドの上でのリハビリはやっている。
新聞や本を読もうとしている。
ラジオは常に聴いている。
母の母は101歳まで生きたので、母もまだ生きられる可能性がある。
かつて、父の家族のことで大変苦労してもそれに耐え抜いた経験がある。

などで、諦めてはいないということを示しています。


9.4 まとめ

母の問題の解決は難しいとは思いますが、以上のようなことから、解決できる可能性はあると考えて、諦めずに、最大限の努力をするつもりです。

解決の考え方は、基本的には、これまでの問題と同じですが、今回は、母の寿命が大きな要因になっていて、即刻の対応が必要なときもあり、私には制御不可能な点が多い問題でした。

今回の特記点は、

1)全体の見通しがつかない段階では、小さい問題を一つ一つ着実に解決していった。
2)人の助けを借りなければならないことが多かった。
3)自分の意思と関係なく決まっていく状況の変化を見て(チェック機能:母の状態をよく見る)、大事なことに気づき、考え、やることを決めていかねばならなかった。
4)素早い対応が必要な場合もかなりあった。 
5)やっていることの良し悪しがはっきりしないこともかなりあり、そのときは、自分の直感に頼るしかなかった。
6)今回の問題解決では、母が脳梗塞になる前から考えていたこと(計画)がとても役に立った。実現不可能と思われても、「理想」を目標にする。
7)周りに人達に自分のやりたいことをきちんと知らせておく。

などで、これらはこれからの問題解決で参考にすべきことです。

2010年12月記



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